Ⅰ.1987年に新憲法を公布し、91年上院が基地存続条約の批准を拒否、92年までに米軍基地を完全撤退。
東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟10か国内には、現在、米軍基地はありません。
(インドネシア・シンガポール・タイ・フィリッピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ラオス・ミャンマー・カンボジア)
フィリッピンと米国との間には「米比相互防衛条約」という二国間の安全保障条約があります。タイやシンガポールも米軍との合同演習をしていますが、ASEANとしては非同盟の原則を貫き、米軍基地がなくても、地域の安全保障の仕組みは機能しています。
Ⅱ.始まりは1986年の民衆革命。フィリピンからの米軍基地の撤退は、日本の米軍基地問題を考えるにあたって多くの示唆に富んでいます。
東西冷戦の中で生まれた、「親米独裁政権」のマルコス大統領・1965年から86年までの21年間にわたってフィリッピンを支配、厳戒令を発布して政敵を逮捕・投獄するなど、非常に強権的な大統領がいました。
彼の最大のライバルで、米国に亡命したベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月、命がけで帰国します。彼はマニラ空港に到着し、タラップを降り始めた直後、後頭部を銃で撃たれ殺されました。手を下したのはマルコスの腹心だった人物です。
この事件で国民は怒り、マルコス独裁政権を打倒し、殺されたアキノ氏の妻であるコラソン・アキノを大統領にしようという民主化の動きが爆発的に全土に広がりました。
事件から3年後の1986年2月、エサド通りというマニラで1番大きな通りを100万人もの民衆が埋め尽くし、大統領のいるマラカニアン宮殿を包囲して、マルコス政権を打倒しました。マルコスはハワイに亡命しました。
Ⅲ.アキノ政変は独裁政権が民衆の蜂起によって無血で打倒されたということで、東西冷戦下にあった世界では通目を浴びました。3年後には中国での民主化要求での「第2次天安門事件」・東欧ではルーマニアのチャウシェスク政権など独裁政権が相次いで崩壊、東西ドイツを隔てていた壁の崩壊が続きます。
マルコス政権崩壊は、革命の名に値する社会構造の大変化をもたらすことはありませんでしたが、冷戦末期の世界に於いて民衆の蜂起を促す口火となり、やがて冷戦自体を終結させる大きな帆脳となって燃え盛りました。
Ⅳ.新しい憲法の制定作業が始まります。発足した48人の憲法制定委員会が取り組んだ最大の課題は米軍基地を憲法の中でう位置づけるかでした。
アキノ大統領は、86年の政変直後こそ、マルコスを裏で支えた米国に批判的でしたが、次第に米国とは良好な関係を持ちたいと考えるようになります。少なくとも一定期間は基地存続を容認する姿勢になっていました。
憲法制定委員会では「外交、安全保障は議会と大統領にゆだねるべきで、憲法に盛り込む必要はない」という意見も出ましたが基地反対派委員は「基地の存在はフィリッピンの指導者たちを米国の政策やりえきに従属させ、米国による内政干渉を招く」と訴え、今後フィリピンは中立と非同盟を外交の基本政策とするべきだと主張します。
最終的に基地反対派の主張は通りました。憲法に「外国軍基地の原則禁止」を条文に書き込むことを決めました。
Ⅴ.米国との間で結ばれていた米比基地協定が1991年9月17日に期限切れを迎え後は、新条約を結ばなければ外国軍基地をフィリッピン国内に置くことが出来ないとしました。
新条約の承認には「上院議員の3分の2以上の同意」と「議会が要求する場合は国民投票」が必要という非常に厳しい規定を盛り込みました。さらに新憲法は「非核政策を採用、追求する」と規定し、領土内での核兵器の貯蔵または設置を禁止しました。
Ⅵ.米国とフィリッピンとの基地問題をめぐる予備交渉が1990年5月から本格化します。予備交渉はまず、憲法の規定にのっとり、1947年に結ばれた米比基地協定の終了をフィリッピン側が米国側に通告することから始まりました。
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クラーク空軍基地 1989年 手前に見えるのがF-4
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返還後、跡地はクラーク経済特別区 (CSEZ)へ
クラーク、スービック基地での汚染被害者は
521人の被害者(うち225人死亡)が確認。 詳細は「こちら」
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フィリッピン側の団長は「落とし所」として提示したのは、国内に当時あった6カ所の米軍基地・施設のうち、クラーク空軍基地、ジョン・ヘイ保養所(ルソン島・バギオ)など5カ所は返還させ、スービック海軍基地のみの当面の継続使用は認めるという妥協案でした。
しかし、この提案に米国側は烈火の如く怒りました。「これで我々の関係はおしましだ」と怒鳴り、「ワシントンと同盟国は激怒している!」と言って、投資は停止する。フィリッピン人基地労働者は解雇手当ももらえないだろうと脅かしました。
Ⅶ.予備交渉が続く中、1991年6月にフィリッピンは歴史的大災害に襲われます。ルソン島中部のピナトゥボ火山の大噴火でした。クラーク基地のあったアンへレ市、スービック基地のあるオロンガポ市も含め、ルソン島中部は火山灰の砂漠のような光景になりました。
1千万人以上が被災しました。20世紀最大の火山噴火で、成層圏まで達した火山灰によって地球全体の気温を0.5度下げたとされています。
噴火から1カ月もしない7月に訪れたアメリカ代表は、クラーク空軍基地の一方的撤去を伝えました。
同国被災者の救援活動もほとんど行わず、火山灰で使えなくなった基地をあっけなく放棄したのです。ただし、スービック海軍基地の継続使用は要求し続けました。
1991年9月、憲法の規定にのっとり、上院が新基地条約の批准を採決にかけます。
結果は上院議員24人中、賛成11人。反対12人(欠席1)と、過半数にも達しませんでした。この結果1992年11月までに全ての米軍基地はフィリッピンから撤去します。
Ⅷ.フィリッピンが米軍基地を撤去させるにいたった最大の要因は、同国の歴史の中に連綿と受け継がれている「ナショナリズムの系譜」でした。
アメリカが同国を植民地にする過程で起きた米比戦争(1899年~1913年)では、少なくとも60万人、最大で100万人と言われる同国人が米軍により虐殺されています。第二次大戦後も米軍は残り、同国に不利な経済協定も結ばされました。
「同国は本当の独立を勝ち取っていないのではないか」という不満が国民の間にくすぶっていました。
親米的な国民が多い反面、右も左も同国ではナショナリズムを否定しません。
Ⅸ.一度でも植民地支配を受けた国は独立運動を闘う過程で、そうした国民共通の民族意識が育ち、建国の精神も何となく出来上がってきます。そこが日本と違う所でしょう。
少なくとも日本では大戦後、右翼も保守政治家も経済界も、戦後一貫して対米従属です。一方、対米従属を批判するリベラル派(自由主義者)や左派も、日本の伝統に根差した価値観を封建制度などと一緒にして頬りがちでもあります。
ここまで対米従属的な国は日本以外に知りません。世界で唯一の国ではないでしょうか? 太平洋にパラオという小さな島国がありますが、非核憲法を制定して米国に嫌われたため、信託統治領(国際連合の信託を受けた国が、国連総会及び、信託統治理事会による監督により、一定の非独立国地域を統治する制度。国連憲章75条規定。国際連盟における統治制度を発展させ継承)からの独立を米国に中々認めてもらえませんでした。戦い続け1994年10月1日ようやく独立が国連から認められています。
日本はなぜ、ここまで対米従属なのか? かつての戦争で完膚なきまでに米国に敗北したからでしょうか?
Ⅹ.1992年11月14日星条旗が下され、全ての米軍基地はフィリッピン側に返還されました。これによって同国は新しい時代を迎えましたが、基地撤去後も日米安保に似た米比総合防衛条約は、そのまま存続しています。これは米国、フィリッピンのどちらかが侵略を受けたら、互いに防衛し合うという条約です。
基地がなくなった後も、同国と米国との関係は、特に悪化しているとは思いません。その後も合同演習などが行われていますが、憲法上の制約が在る限り、米軍が再び基地を作るのは政治的現実から見て殆ど不可能です。
Ⅵ.クラーク・スービックの両基地跡地は、その後、米軍が残したインフラを活かした「経済特区」となりました。20年を経た現在、両特区とも外資の誘致に成功しており、雇用は数倍増えています。
スービック特区はすでに進出企業で敷地が満杯になり、特区を周辺市町村にまで広げています。クラーク特区は企業誘致だけではなく、国際空港を開港させ、格安航空(LCC)の起点として第二のマニラ空港になろうとしています。
両特区とも年率3パーセント以上の成長を続けています。仕事を失うことを恐れ、基地存続反対した上院議員に「トマトを投げつけたい」と言っていた基地労働者の多くは「あの時は腹が立ったが、今はこの町にとって本当に良かったと思う」と話していました。
人々に感じるのは自信です。家族の将来に前向きな人が多く、汚職や犯罪もマニラに比べると殆ど目立ちません。
Ⅶ.「日米安保ムラ」の住民は、フィリッピンの事例に学ぶことなくこんなことを言っています。「米軍基地を撤去させたフィリッピンは、米軍が居なくなった後、中国に南シナ海の南沙諸島を実効支配されたじゃないか。だからこそ、尖閣諸島をまもるために海兵隊は抑止力として必要なんだ」フィリッピンの選択は過ちだったかのように言うのです。
2012年同国海軍に同乗して南沙諸島海域を訪れまし、同国が実行支配している島にも上陸しました「南沙諸島を実効支配された」と言うと、広大な海域全てを中国にとられたように聞こえますが、全く違います。
フィリッピンとベトナムの間の海域に、いっぱい島があります。地図上は40ほどですが、実際は100以上あります。
この島や岩礁を中国・台湾・フィリッピン・ベトナム・マレーシア・ブルネイの6か国・地域が領有権を主張、入り乱れて実行支配しているのが現状です。
同国海軍によると、現状の実効支配はベトナム20以上、同国9、中国7以上、マレーシア5以上。台湾は南沙諸島最大の太平洋を支配、ブルネイは南西海域のルイサ礁などの領有権を主張していますが、実効支配はしていません。
「安保ムラの」人々が言っているにはほんの小さな岩礁で今までどこも実効支配していませんでした。建物もなく岩礁や浅瀬が在るだけでした。そこに中国が建造物を建てたという事です。米軍基地の撤退とは関係ありません。
Ⅷ.2002年に中国とASEANが合意に至ったのが「南シナ海行動宣言」でした・その内容は「領有権問題の平和的解決を目指す」「実効支配の拡大を自粛する」の2点です。
つまり、いずれかの国・地域が実行支配している島・岩礁を武力で奪うことをしないだけではなく、現在、どの国・地域も支配下にない島でも、新たに支配下に置くことは控えるという取り決めです。この原則は今も守られています。
もちろん小競り合いはあります。しかし、武力衝突には至っていません。日本の尖閣諸島問題と大きく違うのは、領土問題が存在するという事については関係国すべてが認めているのです。
問題の存在を認めなければ、関係国のトップ同士が議題にして話し合う環境は生まれず、解決の道筋を築くことはほとんど不可能です。
領土問題に譲歩しないと明言したうえでも、領土問題の存在さえ認めれば、平和解決の枠組みについてトップ同士が話し合うことは可能になります。
1954年に反共軍事同盟として設立された東南アジア条約機構(SEATO)を母体としているASEANは、長い歴史をかけて域内に加盟国を拡げ、他国の主権と国際法を尊重しながら「平和の知恵」を積み重ねてきました。
ASEANは日本・中国・韓国・を加え「ASEAN+3」という枠組みが1997年から始まり、すでに15年以上、首脳会談や外相会議を行ってきています。
また、1994年に創設したASEAN地域フォーラム(ARF)は、現在、北朝鮮を含む東アジア全域の国に米国、欧州連合(EU)も加わる唯一の安全保障をめぐる定期的場となっています。
ASEANの長年の安全保障外交は、対米追従に終始してきた日本外交にはない独立性、さらに独創性と評価できる優れた面があります。日本外交が学ぶべき点は多々あると思います。 |