
国民の基本的人権を守るべき裁判所が政府・大企業など巨大な権力の言いなりとなっている。この司法の反動化はいつから始まったのだろうか。一緒に考えてみよう。
1950年代、日本各地で米軍による基地・演習場の新設や拡張などの土地強奪に反対する闘いがくりひろげられた。米軍立川基地(東京)でもジェット機で核兵器を輸送できる規模に滑走路を拡張する計画が持ち上がり、基地に隣接する砂川町にその計画が突然提示され、数回にわたり強制測量が行われた。これに対し、地元農民・労働者・学生などによる反対闘争が展開された。これが砂川闘争だ。
1957年夏に行われた強制測量に反対する地元農民支援集会の際、学生3名を含む7名が、基地内に4.5メートル〝侵入〟したとの理由で「日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」の罪で起訴された。
異例の跳躍上告と米国からの圧力
1959年、一審の東京地裁では米軍駐留と安保条約・行政協定の違憲性が正面から争われた。そこで伊達秋雄裁判長(1)は安保条約が憲法9条に違反することを明確に認め、被告全員に無罪を言い渡した。
しかし、日本政府は異例の跳躍上告。
葬られた「安保違憲」判決
最高裁(2)は同年12月16日、自らの司法権を放棄し安保条約を裁判所の司法審査の範囲外とする判決を下し、「伊達判決」を葬り去った。この判決の裏には「伊達判決」を最高裁で破棄させようとする米国の圧力や日米政府による秘密会談があった。(*)
人権無視の法律にたいして関生支部は反対
1992年、暴力団を取り締まる法律として、暴対法(「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)が施行された。
当時、他の労働組合が反対の声を上げない中、関生支部だけはこの法案に強く反対。それは、対象を暴力団とすることで国民には一見良いことのように見せているが、本当の狙いは国家権力による基本的人権の制約であり、その刃は労働組合や市民団体に向けられていることを見抜いていたからだ。
その時、警察は言い訳として「暴力団をやめれば規制対象でなくなるため、『結社の自由』も『生存権』も侵害していない」と言っていた。しかし、国家権力が法律を使って団体への参加をやめさせる、団体への離脱を促進すると宣言し、さらに団体の構成員・関係者というだけで些細な行為にまで刑罰を科すというのは、結社の自由が実質的に侵害されていることに他ならない。
そして今、それは現実になっている。2011年10月1日に東京都と沖縄県で暴力団排除条例(暴排条例)が施行され、以降、全国で暴排条例が整備された。この条例は、権力者が国民の間に線を引き、特定の人々を社会から排除しようとするものであり、警察の恣意的な運用により表現・報道・通信・結社の自由など基本的権利を奪うものだ。
法が手足縛る道具に
「黙秘権」を否定する人質司法や取引先金融機関への経済的圧力、一方的な強制捜査や憲法で認められた組合活動の妨害、政治的判決など、資本主義の根幹に触れる運動を行なう関生支部や反原発・反弾圧・反基地・反戦団体にこの法律や条例が拡張適用されている。
支配構造を覆す運動を実践
しかし、そうした攻撃を受けるのは、私たちの運動が産業の民主化・経済の民主化を推し進め、現在の支配構造を覆す可能性を持っているからだ。そのことを忘れてはならない。
(1) 伊達判決 要旨 伊達判決を生かす会 ホームページ
(2) 裁判要旨 全文 PDF 裁判所ウェブサイト
(*) この判決には、日米両国政府から圧力がかかっていた事が、
のちに明らかになる。砂川事件#最高裁判決の背景
砂川事件 - Wikipedia
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